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結局取手には行かなかった。

 

ものすごくやる気がない。何もかもどうでもいい気持ちになっていた。勉強もしないし映画も読書もしない。ただ寝ていた。寝て浅い夢の内に起きる。心臓の鼓動が早く、認識能力が働かない。

 

作品をつくるということを「output」とよく呼ぶ。逆にあらゆる行為は作品をつくるという目的のための「input」となるべきだ、という。しかし私の目的は作品をつくることではない。私の目的は、「勉強」っぽいことを実験的に行なって「私が知りうることのうちで私の何かの基準によって選択された何か」を分からない状態から分かる状態にすることだ。だから作品をつくることが「勉強」に入るのなら行おう。けれどもバランスというものがある。私は読書や映画などを行わないと怖い。現在の私はどこまで尊重されるべきか。作品をつくる行為は現在の私をあまりに特権化しすぎていないか?(これに対して私の担任はもしかしたら「理屈をこねるのが好きだねぇ」と嘲笑するかもしれない。しないかもしれないけど)

 

がんばって現代文をやっている。宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』を読んだ。家族社会学というらしいが、面白い。それに論理展開が分かりやすく、無駄がない。

 

もう朝の6時だ。もう起床する人がいてもおかしくない。今日は友達の作品展示に遊びに行く。美術館にも行く。少し寝た方がいい気がする。とか言ってコクトー『大股びらき』を開く。

 

現代文をひたすらやっている気がする。現代文はそれほどすごいものなのか。分からない。どうすごいのかも分からない。世界史も英語もそうだ。これは「勉強は無価値だ」と言っている訳ではない。ある人がその行為を積極的に選択するための価値が、それらにあるのか、あったとしてどんなものなのか、が分からないのだ。あらゆる出来事やあらゆる行為に価値があるし、それぞれ異なった質の価値を持つと思う。私は「あらゆるものに等量の量的な価値があるならば、あらゆるものに価値がないとも言える」という命題には同意できるが、実際には価値は量的には量れず、質的に認知されるものだと思う。そういう意味であらゆる出来事の価値それぞれは一つ一つ異なる。

あー、独りよがりな文章を書いている。

 

ようするに、あらゆる出来事に対して「すごい」とも「すごくない」とも言えないから、今自分がやってる行為の選択根拠がなくなるということだ。

 

眠い。実験的に眠るという行為を選択してみる。実験以外に生きる方法がない。実験があまりにひどく失敗する、ということは私の人生に大きく支障を及ぼすということだ。人体実験をしている。ひどい失敗をしてヤバイときは死んでしまえばいい。けど私はなんとなく死にたくなかった。死んでしまえばいいと思うことも、死にたくないと思うことも、何かに迎合しているだけな気がする。

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