8/22

更新が一日空きました。

 

昨日のこと。昨日は15時ごろに起きて、美大予備校に電話した。進路の面談について、日程を尋ねたら本日の18時に、とのことだった。ご飯を食べずにグレン・グールドが弾いたバッハをずっと聞いていた。これです。

https://youtu.be/Ah392lnFHxM

 

先生に話したら何か変わるだろうと思った反面、これまでいろんな人に対してそんな風に期待して、結局解決しない。なぜなら僕の問題だからだ。僕のせいだからだ。

で、時間を潰し切って予備校に行きました。先生に会いました。色々聞かれました。一般大学か美大か。大学に行ってやりたいことはあるか。家族との関係。生活リズム。私は事実のみ吐き出す。「何もやる気が無くて寝続けたりクローゼットの中でぼーっとしています」と。

判断基準の判断基準を教えてほしい、と思った。何々至上主義になる必要は無いが、(他人に危害を与えない範囲で)「快楽のために全てを尽くす」や「実験的におもしろそうなことをしてみる」などに一途に取り組む人は一定数いる。どれも行為を判断するのに良い基準だ。でもどの判断基準を取るのか? そこが私には分からない。

 

最終的に「やってみなければ分からない。大科学実験で。(終)」みたいになったんですけど、「哲学やりたいなら近畿大行くよりかは京大行った方がいい。哲学は結局言語だから」というのはなるほどと思いました。てかなんでやんないの?という感じだった。まぁとりあえず一ヶ月でセンター8.5割取れるようにがんばれとか、逆に何もしない生活を一ヶ月続けたら?とかで終わった。

 

帰って現代文をちょっとやった。

 

そして今日。昼に起きる。現代文をちょっとやる。TSUTAYAに行って映画七本借りてくる。serial experiments lain を視聴する。そのあとexit through the gift shopというアート系のドキュメンタリー映画を観た。この映画は最悪な展開だった。人間不信になった。banksyという(イリーガルな?)超有名アーティストがいて、一方その人の厚意で宣伝された人間が成功して莫大な富を得て「ぼくは天才だ。いずれわかる」的なうざい雰囲気を残して終わる。うざい。(映画はbanksyによる編集なので、幾分か彼の苛立ちが反映されて悪者感が増幅しているかもしれないが)

ドキュメンタリー映画としてはめちゃくちゃ面白かった。

 

この二日間であったことをだらだら書いた。どうしようもなさ過ぎる気がする。書いた文章がつまらない。

 

 

 

今、現時点での結論。間違ってるかもしれないけど。そして言葉の定義ができない。論理も飛躍してそうだなぁ。

 

1. 我々は生きている限りにおいて行為をする。

2. 行為はある特定の時間と空間においてなされる。時間あるいは空間が異なる場合、それらは異なる行為だと考える。

3. すでに行われた行為は事実となる。事実は変わらない。

4. まだ行われていない行為は、今まで行なってきたあらゆる行為と比べて、少なくとも時間的に異なっている。だから、まだ行われていない行為と、今まで行ってきたあらゆる行為とは、異なる。

5. まだ行われていない行為は事実ではないため、推測の域を出ない。(*推測には十分に意味がある)

6. 1~5より、我々のこれから行なう行為は推測の域を出ない。このような意味で、「これから行なう行為は常に実験的である」と表現する。

 

でですね……。いや、結論としては正しい気がするんですけどね……。どうすりゃいいの。これ。

 

話変わるんですけど(無責任すぎる展開だ)、予備校の先生が「ノリ」という言葉を多用してまして。何となく大学合格しちゃったからそこに行くみたいなノリでもいいんじゃないのとか、面白いっぽいみたいなノリでも良い気がするとか、言ってました。まぁそうなんですけど。

 

どうすればいいの。ぼくは何をすれば。分からん。

少なくとも生きている限り、何かしらの行為を選択するから。だから。

 

優先順位とかそういう話な気がする。いずれの行為も新しいもので特別なものだから。どう選択するか……。さて。

 

分からん。チョコせんべい食べたい。

 

まぁ色々やってみないことには、「判断基準の判断基準」をどう選択するかのデータは得られないのですが。データ集めなのか?

 

いやちょっと待て。まず逆だ。色々やってみたという過去があって、その上でそれらをデータとして何かを導き出すのであって、データ集めが行為の動機にはならない気がする。動機として十分じゃない。

そして、これらの問題が解決してなくとも、悩む必要はない気もしてきた。臆病になる意味が無い。臆病で何かをしないために、可能性が摘まれるよりかは何かをした方がいい。やっちゃうことが重要になってくる気がする。出口のない迷路で、行くべき道は右か左かを迷っても無駄で、それよりかは「出口がない」ことを証明した方がいい。

 

その迷路を「出口がない」と証明する必要すらない。ヘリコプターで空へ離脱して、迷路を解かないという選択もありだ。しかしそれでは心残り過ぎる。それにこの比喩ではヘリコプターで空へ離脱した後、迷路の全体像が分かってしまうかもしれないが、現実には全体像が分かって「出口がないかどうか」が分かるなんて保証はどこにもない。

 

冷静になろう。閑話休題。今3:30です。明日朝早く起きたいです。生活リズムが崩れるのは嫌いですし、曙光が好きなので。で、冷蔵庫の野菜室にある野菜を色々使ってサラダを作って食べます。スープも飲みます。パンにはチーズとジャムをのせます。15時からオフ会に行きます。それまで勉強します。オフ会終わった後も勉強します。

これらの計画が行われる為には。「出口がない」ことを証明せねばならない。

 

あれ。もしかして比喩間違ってないか。迷路で迷ってて、出口がないかどうかって話なのか? そうじゃない。道がないんだ。ただ平坦な大地が広がっていて、どこに行くにも自由。で、どこにいけばいいのかって話。入り口も出口もない。内と外というものがそもそもない。

 

 どう歩くのかということ。けんけんで進んでいる人がいる。速く歩いている人がいる。遠くを歩いている人がいる。上手く進んでいる「ようにみえる」(自分がそう思っている)、とは一体どういうことか。少なくとも、上手く歩いている「ようにみえる」ということはつまり、それが実際に上手く歩いているかどうかは分からないということだ。

 

「分からない」ということ。どう進んだらいいのか分からない。進み方は色々あって1つじゃなくていい。進み方をどう選択すべきかという問題。それははっきりとは「分からない」。

 

絶対に私たちは歩く。何かに押されて、何かしら一本の道を作っていく。

 

これは、もう「勘」以外になんかあります?  これが答えだ。勘だ。

現状、どう進んだらいいのか分からない。進み方をどう選択したらいいのかも分からない。人間は変容する。一秒前と後では、判断基準が変わっていてもおかしくない。

勘っていうのは信用できないものではない。出鱈目ではなく、確信は持ち得ない。これが本来の「悩む」ということなのかもしれない。今までの経験が勘を構成している。推測みたいにかっちりしたものではなく、もっと軽~いもの。

 

 

なんとなく納得したかもしれない。明日ちゃんと確認しよう。みなさんどう思います?  てか文章が酷い気もしないでもないんですが、伝わってますか?

 

4:13。眠い。寝ます。早く起きよう。

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