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もう一度確認。

まず大学に行こうが行くまいが、いずれの未来にもメリットとデメリットがあり比較することはできない。また未来のことなので解像度の高い予測はできない。

努力(と呼ばれるもの←まだ不明瞭)によって、ある程度望み通りな未来を狙うことは可能だ。そして狙いは当たりうるし、外れうる。当たりの未来と外れの未来にはいずれにもメリットとデメリットがあり、比較することはできない。

僕は往々にしてこの「狙い」をしないまま絶望していたと思われる。

 

躁状態では何もかも良く見え、鬱状態では何もかもダメに見える。このことから現在の自分の感覚を信用できない。面白くないように見えるものは実は面白く、この苦しさは実は嘘で、この痛みは本物の痛みであろうか?(明らかな幸福/苦痛……←この二項対立でいいのか?……などを除く)

基本的に鬱状態だったのにも理由があるのではないか。つまり積極的に鬱を演じていたのではないだろうか。仮にこれが正しいとしてなぜ鬱を演じるのかと言うと、前述の「狙い」を行うのが面倒だからである。しかし「面倒」という感覚自体、信用できない。

このような疑念から、自分が今喜んでいるのか否か、面白いと感じるか否か、面倒と感じるか否か、つらいと感じるか否かなどを選択することができるとも言える、と思った。で躁鬱をかなりコントロールできるようになった。

 

で、具体的にはどうするの、というと。大学には行くのが賢明だよ~という流れがあるので行けるように努める。鬱になる動機がないので、趣味を拡大させて積極的に喜びを得るようにする。いろんな意味で人を歓迎する手筈を整える(この「歓迎」という言葉の意味がまだ自分の中ではっきりしていない)。などなど。

鬱になろうという動機は、「望んだ未来を狙える」ということが分かって、消滅したと思う。今はない。

 

と、今の僕はこんな感じです。

 

 

「歓迎」に関してですが、これはいわゆる「相手の気持ちになって、相手の不満や不安などを予測して上手く対応する」ということです。これ、どうすればいいのだろうか。

勘の良い人は、その人が今何を食べたくて、どんな服が似合って、何を思っているのかがわかるのだそうだ。そんなテレパシーのようなことがあるのだろうか。菊地成孔をベースに考えてます。彼はそうだと言ってます。僕は信じる。

まぁこんな話をしなくとも、相手の視点になるのが重要だとやっと分かりました。この歳で。

 

以上です。眠れない人は、小さいコップを用意し、氷をたった一つ入れて、水を飲んで。私は寝る。電気は消します。

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